2005.05.06 Fri そこには視聴者一人一人が自らの意見を持つ隙はない
JR西日本の列車脱線事故に関連して、事故当日にボウリング大会やゴルフ大会、宴会などを行っていたことが連日報道されている。ニュース番組でもトップ扱いだ。
ただし、これは「報道されている」という言葉ですべてを表現できない。正しくは「マスコミが率先して非難を浴びせている」と言うべきだろう。記者会見の記者の質問が何だかやたら高圧的なことがそれを端的に象徴している。
このボウリング問題に関しては、これらの行為を非難するかどうかは個人の考え方に拠る所が大きいはずだ。なんせ担当区が違ったり、非常事態召集という対象外だったこと、またJR西日本自身が発表した「不適切行動」の範囲は大阪や神戸以外を含むことなど、微妙な点が多すぎる。見ている人によって受け止め方は様々であるはずだ。
ところがマスコミの報道はあからさまにそれらを断罪するかのようなものばかりだ。中には効果音を用いることによって見た人が「このボウリング問題に関してもJR西日本が明らかに悪い」と受け止めてしまうような印象操作としか言い様が無い報道をするニュース番組すらある。そこには視聴者一人一人が自らの意見を持つ隙はない。
今回の一連の報道で、マスコミの影響力の強さを改めて思い知った。そのことは「体質」という単語を批判用語として一般化させたことや、遺族が謝罪に来たJR西の社長に対し「利益優先だからこんな事件が起きたんでしょ!」とマスコミが作り上げた批判用語を用いて怒鳴りつけた場面からも解かる。
遺族の怒りはもっともなんだけど、その遺族の怒りの方向性を作ったのはマスコミであるのは間違いないだろう。けど、それで良いのだろうか。被害者も遺族も視聴者も、報道から異なる量の怒りを同じ方向に持ってしまってないだろうか。
このボウリング問題に関することであれ何であれ、誰もが同じ意見・感情を持つわけない。「世論」という単語を用いれば「賛成派は○○パーセント」とかそういう感じになるはずだろう。それをまるで一様化してしまう方向に導く報道に抵抗を感じるのは不自然だろうか。
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