update2002頃

北条早雲とDischarge
DISCHARGE / HEAR NOTHING SEE NOTHING SAY NOTHING (1979)


 イギリスのハードコアパンクバンド。シンプル、スピード、ラフ、を基本にしたハードコアパンクサウンドが凝縮された、傑作の1stアルバム。

 ちょっと音楽詳しい人に解説してもらったら、各曲ともどうやらサビ以外のメロが2つしかなく、ギターのリフも2種類をひたすら繰り返している曲ばっか、そんで叫んでるだけ(レコーディング的にヴォーカルの声は丁寧)、だそうです。メタルが好きな彼から見ればとんでもないと。なるほど。

 さて。僕はこのDischargeを「北条早雲」に喩えたいと思います。

 戦国時代に5代に渡って関東一帯を支配した北条家の体制は、初代北条早雲(1432−1518)の代に作られた物が非常に多いです。例えば小田原城を拠点とすること、家紋の三つ鱗、北条早雲21カ条、17条国法などです。これと同じように、現在のパンクバンドの様々な「パンク的思考」の原点はDischargeにあるように思えます。
 一介の浪人(異説あり)にすぎなかった北条早雲(本当は北条姓を名乗ってはないのですが)、おもむろに関東で旗揚げをしてたくさんの支持者や侍を集めて一大勢力となり、ついには小田原城を攻略して関東の支配権を確立するのですが、それに近いものがパンクの世界のDischargeであると思います。

 つまり。Dischargeは北条早雲である。

 ピストルズ、クラッシュらが中心だったいわゆる「第1次パンクムーブメント」は大手(メジャー)レーベルからレコードを発売したのですが、それらには制約が多くついたため、結果としてパンクバンドとしての活動に限界が多くありました。Dischargeはその失敗を踏まえて、自分たちでレーベルを立ち上げて(インディーズで)レコードをリリースしました。現在でもパンクバンドの多くは商業的なメジャーレーベルを避けているので、この傾向はDischargeが原点だと思えます。またピストルズなどのポップなサウンドから、荒々しい音にも彼らから変化したと思えますし、モヒカン、鋲ジャンなどのファッションにも大きな影響を与えました。

 北条早雲が血で血を争う戦国時代に長く繁栄させ、最後まで豊臣秀吉に抵抗することができた北条家を1代で築いたように。Dischargeもこのアルバムで長いパンクの長い繁栄を築いたのだと思います。まさに「パンクは死ななかった」。
 最終的に北条家は1590年の豊臣秀吉が全国統一を達成した「小田原城攻め」で滅びることになりますが、現在2002年、日本の音楽シーンの過半数を統一した豊臣秀吉は音楽業界を統一できずにいます。テレビなどのメディアの派手な宣伝を無視し、自分が好きなバンドを自分の価値観で探す多数のファンがいる限り。そのファンに支持されるバンドがある限り。日本はまだまだ大丈夫。

 こんな価値観を生み出したのがDischargeの偉大さであると。




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