update2003.8.21

世界で１組だけの、魔法で記憶を消せない夫婦


　人間の脳の記憶をまるでパソコンのハードディスクのデータを消すかのように、簡単に消去することができるこの魔法は、誰が発見したのかも、なぜ記憶を都合よく消せるのかということもさっぱり解らない。しかしこの魔法は確実に地球に存在する。
　人々は自分にとって都合の悪い記憶を簡単に消せる魔法を知ったとき、自分を不幸にする記憶を次々と消していった。失恋の苦しみも、親を失った悲しみも、裏切られたショックも。すべて簡単に忘れることができるようになったのだ。
　便利なものは確実に広まる。瞬く間にこの魔法は世界中に広まってしまった。あらゆる国で辛い記憶を消す人々。旦那を事故で失った妻は次の日から違う男を漁り始め、妻に逃げられた男は次の瞬間には何もなかったような顔をして風俗のカタログに目を通す。罪の意識に悩まされた殺人犯でさえも、すっかりその記憶を消してしまう。汚職をした政治家の「記憶にございません」という言葉はその場しのぎの嘘でなく、本当に記憶からなくなっている、という現象まで起きた。


　この魔法には不思議な性質がある。それは２０年間使わないと一生使えなくなるという不思議な性質である。これはどこかの国の研究機関が発見し公表した事実なのだが、しかしそれはまったく意味がないことだった。

　なぜならば誰もが２０歳までに１度は死にたいくらい苦しい経験をし、その記憶から逃れるためにこの魔法を使ってしまうのだ。

　そして、つらい記憶が与える苦しみから解放される喜び、その「楽さ」を知ってしまった人は、つらいことがあったら再びこの魔法を使ってしまう。それはさながら麻薬のように。人々はこの魔法に依存してしまうのだ。


　この魔法が発見され、広く普及し、もう何十年も経った。繰り返し唱えられるこの魔法。地球が飽きるほど自転と公転を繰り返す間に、この魔法も飽きるほど唱えられた。嫌なことを忘れたいとき、この魔法を唱えればよい。人々のこういうライフスタイルが当たり前の世の中になった。

　しかし「彼」は人類史上初めて、この魔法が使えなかった。

--------

みんな、俺のことをかわいそうって言う。親もかわいそうな子だと、涙を流しながら同情したけど、親どもはすぐにその記憶を消すんだよ。そんな同情、本当に意味ないよな。

でも、実は俺、自分で自分をかわいそうだなんて思ってないよ。記憶が消せないことがそんなにつらいとか思ったことないんだ。確かに便利だと思うよ。つらい時もある。でもその魔法がないならないで、生きていけるよ。悲しみとか苦しみとか、一緒に生きていけるものだよ。それが、あたり前になるんだよ。

さらに言うならば。俺は人の気持ちがすごい解ると思うんだ。
少なくとも、簡単に記憶を消してしまうよりは、ね。

こんなことされて、俺はすごい嫌な思いをした。
こんなこと言われて、俺はすごい傷ついた。

俺にはこういう記憶が消せないから、たくさんある。確かにこういう記憶はつらいものだけど、でもそれがあるから、相手の気持ちに敏感になれたんだ。

こうすれば相手は嫌な思いをするだろう。
こんなことを言えば、相手は傷つくだろう。
そういうのが、よく解るんだ。

みんな簡単にこの魔法を使って記憶を消すから、俺にとっては当たり前のこともできなくなってるんだ。そりゃお互い傷ついても、すぐに記憶を消してしまえばいいからな、気を使うこともなくなるよ。



俺のことを好きだと言ってくれる彼女は、俺のこういうところが好きだって言ってくれた。俺は優しいんだそうだ。誰よりも。そりゃそうだよ、俺は魔法が使えないからね、嫌な経験も魔法を唱えてハイ終わり、というわけにいかないからさ。いろんなことを考えるようになるよ。いろんな経験を蓄積してるよ。
ある朝、彼女は言ってくれたんだ。私はもう魔法を使わないって。つらくても記憶を消さないって。あなたと同じ人間になりたいって。

俺は嬉しかったけど、止めとけって言った。でも彼女の決意は固くてね。

--------

妻と結婚して２０年が経った。妻はあの日以来、本当に魔法を唱えなかったんだ。私と気持ちのすれ違いで辛かった日々も。親友が病死した夜も。海ができそうなくらい涙を流してたけど、２０年間、魔法を使わなかったんだ。

だから、今は私も妻も魔法は使えない。世界で１組だけの、魔法で記憶を消せない夫婦だ。

いや、私たちだけではない。私の親友も、私たち夫婦の生き方を見て、去年から魔法を使うことをやめた。また高校に通っている私たちの息子も、魔法は１度も使っていない。
まだ私の周りのほんの数人だが、少しずつ、魔法を使わない人が増えているのは事実だ。





自惚れかもしれないけど。私なら、私たちなら、世の中を変えれるような気がするよ。