2005.02.01 Tue 歌詞911
僕は日々いろいろとうるさいロックのCDを買い、その感想をこのサイトで文章化するということを一種の趣味としているわけですが、おそらくこの手の「レビューサイト」としては比較的長文を書いている方だと思います。
ただそれは別に、常に自分のなかで確固たる思想や価値観などがあるため、一つの音源を聴くというインプットに対し大量のアウトプットが出せる、だからたくさん書けるという訳では決してありません。むしろその音源を聴きながらああでもないこうでもないと色々考えてみる作業の時間はおそろしく長いわけでして。何のことは無い、確固たる思想や価値観があるのでなく、今こうしてキーボードをぱちぱちと叩きながら自分の思想や価値観を探しているのです。
今日は今日で日本のバンドの戦争反対とアメリカのバンドの戦争反対の意味の違いを色々考えてました。そしてまた僕なりの考えが出てきたので、忘備録の意味も兼ねてここに書いておこうと思います。
アメリカのバンド、例えばCASUALITIESなどの反戦ソングてのは視点が多用なんですよね。例えばその歌詞の中で兵士が出てくるか否か、という分岐がまずあって。兵士が出てくるならその兵士が帰ってくることを願っているのか、すでに死んでいるのか、戦う理由も考えずただ相手の兵士を殺していると歌うのか。国家として軍隊が成立し、市民生活が「友達が軍に入って兵士になった」「父親は軍人なんだ」などの事柄と密接なためにこのような具体的な内容になるんだと思います。
逆に日本の反戦ソングはバリエーションが非常に乏しい。兵士(本的に捉えると自衛官)を主役にした視点は、少なくとも僕の知ってる範囲にありません。実際、戦場で戦死した自衛官はいないわけだし。少し話しは逸れてしまいますが、日本独自の視点としては広島・長崎を前面に出したりする反戦ソングがありますよね。
もちろん、僕は日本のバンドが戦争反対を唱える行為を薄っぺらいことだとか批判したいわけじゃありません。どんなことを考え、どんな主張を持ち、どんな歌を書いてパフォーマンスするか。それはバンドの自由です。もちろん、自由に伴う規制、いわゆる「公共の福祉」とやらに触れない程度であるのは大前提として(法律詳しいわけじゃないからこの言い方や解釈が正しいかどうか自信ないけど)。
ここまで読んで気付いた方もいるかも知れません。僕は"ROCK AGAINST BUSH"について考えて、この日記を書いてます。
まあ、反ブッシュの人が全員反戦かどうかはさて置き。何かさ、あのコンピ盤を極上のものみたいに扱って、逆に日本のバンド、特に自称、他称、商業的に限らずパンクとカテゴライズされるバンドがレベル低い、政治主張がない、上辺だけのパンクだ、みたいな論調がはっきり言って不愉快でした。そりゃ、できねえよ。社会の構図が違うもん。
確か中学校くらいの国語の教科書にあった話だと記憶してるんですが、日本人にとってお米は生活に密接だから「米」「ご飯」「めし」「おかゆ」「白米」「古米」と状況や状態などによっていろいろ言い分けるけど、エジプトの人にとってはお米を指す単語はそれほど多くない。逆に日本人にとってラクダはラクダだけどエジプトの言葉ではそのラクダの用途や雄雌の違いなどでいろいろな言い分けがある、という話でした。
反戦ソングにおける歌詞の温度差は、この言葉に関する言及と同様なわけで。言葉にしろ歌詞にしろ、その国の内情を色濃く反映する、というのはまあ考えてみれば当たり前なはず。だけど何故かパンクに関しては日本は他の国の価値観を直輸入しようとしている気がしてなりません。それこそ自由が燃える温度だよ、歌詞911。
僕個人の考えとして、日本のバンドがある意味反戦ソングにバリエーションが乏しいことは素晴らしいことだと思います。だってこれは日本が平和な証拠じゃね?
仮に北朝鮮からミサイルでも撃ち込まれて、それこそアメリカの911テロ並(もしくはそれ以上の)惨事が日本を襲ったとしたら。その悲しみの数だけバリエーション豊かな(反戦かどうかはさて置き)歌が生まれることでしょう。家族や恋人を亡くした歌かもしれない。助かったことを感謝し、生きていく決意の歌かも知れない。怒りを込めた歌かも知れない。
けど幸いにして日本はそこまでの状況じゃありません。ぬるいパンクアティチュードの同じような反戦ソングの繰り返しでも、それが日本なんだ。普通に良い国じゃん。日本には銃社会を批判する曲も映画もない、そういうこと。
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